今回のインスピレーションは、八王子在住のミュージシャン・金廣真悟さんのインタビューをご紹介します。
多くのアーティストのお客様の中で、今回は金廣さんにお話を伺いました。
曲作りへの想いなど、とても興味深い内容になっています!
ちなみにGozovationでは、金廣さんに履いていただいているブーツ『kanehiro MODEL』がオーダーいただけます!!
金廣真悟
1983年宮崎県生まれ八王子市内在住。
日本のロックバンドであるグッドモーニングアメリカ(現在活動休止中)のVo./Gt.、Asuralbert ⅡのVo./Ba.、そしてソロ名義Shingo Kanehiroでも活動中のミュージシャン。
ミュージシャンになりたかったというわけじゃないんです。
父が自衛隊の戦闘機のパイロットで、その背中を見て育ったので、自然と自分も兄弟も大きくなったらパイロットになりたいという夢を抱いてましたね。
ピアノは妹が習っていたのが羨ましくて始めさせてもらっていたし、小学校の先生に時々頼み込んで作ってもらったミックステープを、移動中の車(田舎だったので家族では車移動が主)で父が流していたThe Beatleと入れ換えて、それに合わせて車内で下手くそな歌を響かせてましたね。
音楽は大好きだったけど、絵を描くのも好きだったし、勉強も運動も好きでしたね。
なんなら音楽は褒められた事は一度もなかったので、あくまで下手の横好きで本気の遊びって感じでしたね。
そんな中、緑が多い中で育ったのにも関わらず、だんだんと視力が悪くなってしまい、航空専門学校を受ける基準の視力に至らなくなり、視力をあげるトレーニングみたいなのを少々実践しましたが全く実らず、諦めるほかなくなってしまいました。
中学生の頭には度重なる転校で友達を作る気もほとんど無くなってしまい、絶望感はありましたね。
石川県の小松市に住んでいる時が一番心を閉ざしていたように思います。
そんな時に個人塾に一緒に通っていた同級生が洋楽を好きな人で、おすすめのMDをくれてその流れからOasisを聴いて、
『エレキギターを弾いてみたい。』
と思ったのがひとつのターニングポイントです。
家から自転車で一時間弱くらいのTSUTAYAまで洋楽のCDをお小遣いから借りれるだけレンタルしに行ってましたね。
中学二年生の夏前に、小松市の姉妹都市であるイギリスのゲーツヘッドに交換留学させてもらったのも一つのきっかけです。
この面接の時に母方の祖母が亡くなってしまい、面接日に行けなかったのですが、後日別日に面接の機会を設けてもらい、無事受かったのは、なんとなく祖母のお陰な気がしています。
そのステイ先の家族が、毎晩夕食の時、ライブショーがあるクラブに連れて行ってもらい、そこで
『バンドを組んでみたい。』
と思いました。
留学というより旅行のような贅沢な時間を終えると同時に東京都府中市に転校し、その中学の同じクラスに同級生とバンドを組んでる人がいて、自然と
「うちのバンドで歌ってよ。」
という流れになりました。
クラシックギターを父方の実家から持ってきてたので、家族に
「うるさい」
と言われながらも必死で練習しましたね。
初めてのエレキギターを手に入れてからも、不思議な事にギターの技術の練習よりも、曲や歌詞を作る事の方に時間を割くことのほうが多かったですね。
心を閉ざすというか、口に気持ちをあまり乗せない分、歌詞や曲を作りたいと言う願望が膨れ上がっていたんだと思います。
恥ずかしくて一人の時ですら歌えない歌詞ばかりですが。(笑)
毎日毎日、曲や歌詞を作って、高校生になりバンドメンバーはバラバラになってしまったけど、新しいバンドを高校内で作って、他の同級生のバンドとライブハウスで切磋琢磨しながらグッドモーニングアメリカになっていきました。
大学の附属高校だったっていうのが音楽に没頭出来た一つの理由だったかもしれませんね。
20歳の頃に初めてCDをインディーズレーベルから出せる事になり、そこから全国ツアーに回ったり、そのためにバイトしたり、本当に勉強そっちのけで音楽を中心の生活をしていましたね。
周りの人が就職活動をし始めたタイミングなど全く分からないくらいだったので、もちろんそこに悩まないまま就職もせず、バンド活動や制作活動を当たり前ようにしていましたね。
八王子で月13本のライブを、お客さんが1、2人の中でやっている様な時期もありましたが、バンド活動をしていく上で、色んな人が力を貸してくれて、だんだんとバンドが大きくなって、気が付いたら一端のミュージシャンにさせてもらっていました。
色んなステージを経験させてもらい、順風満帆とは言えないまでも有難い音楽人生を歩んでおります。
曲にせよ歌詞にせよ、ハッピーだけの曲は作れないなぁと思っています。
ハッピーな時はハッピーをその場で全力で表現したいなーと思うし、自分の中で心から外に自然に出たものを音楽を通して表現したいとはあまり思えないです。
ラジオやテレビ番組のレギュラーをしていた事もあるので、喋るのはだいぶマシにはなりましたが、心を吐露しにくいのは良くも悪くも自分の性質なので、故に音楽というツールは心のバランスを取る上で、自分が生きていく上で必要不可欠な存在と言えます。
逆に深い悲しみだけの曲や歌詞を作れる程の絶望を味わったこともないのでそれも作れないですね。
痛みや悲しみは千差万別にせよ誰でも当たり前に抱いていて、各々の様々な光があるからこその、その時に影やコントラストだと思っているので、それを背景にして、少しでも光に手を伸ばしたくなる様な、背中を光の方に押してあげる手伝いが出来る様な、そんな歌詞やメロディを作って行きたいし、それを昨日よりも良く歌って行きたいと思っています。
主に自分に歌っているんですけどね。(笑)
コロナ禍に入り、何が正解なのかの答え合わせが、未だ出来ないまま今生きています。
色んな人たちが色んな考えを持っていて、どの考えもその人にとってはこの期間中に頭と心を捻って導き出された答えだけど、未確定な要素から導き出された答えが故に、まだまだコロコロ変わって良い考えなのかなぁと思っています。
誰かを批判した・論破出来たからといって、それが正しい答えというのも違う気がしています。
最低限の決められたルールの中、各々の同じじゃない考えや主張を尊重し合いながらぶつかり合って、少し歪な形でバランスを取る。
ロックバンドみたいだなぁと思います。
どうせなら格好良いロックバンドを組みたいですね。
格好良いの定義も各々だと思いますが。(笑)
20年と少しの間、ライブハウスを中心の生活をしてきました。
スポットライトを浴びながら歌える事は、当たり前の生活の中のものでありつつ、最高の喜びでご褒美です。
小学生の頃の剣道の先生に朱熹の『偶成』の詩を書いていただいたのですが、それを未だに額に入れて飾っています。
なかなか身に付かないまま今の歳になってしまいましたが、大切にしている詩です。
悩む事も沢山ありますが、いくつになっても成長出来て、それを感じられるのは嬉しいし幸せな事です。
ただ時間の過ぎる感じ方が早くなり過ぎているので焦るばかりですが、下手の横好きからのミュージシャンなので尚更幸せです。
これからどんな環境になっていくのか分からないし、どんな未来になっていくのか分からないですが、それは今までも同じ事なので、俺は今まで通り喜びも悲しみも全部ひっくるめて全身全霊でステージに上がり続けようと思っています。
いつか大好きなライブハウスで皆さんに会える事を。
金廣真悟
Shingo Kanehiro『おしまいのうた』
Shingo Kanehiro『サンセベリア』
Shingo Kanehiro『Red and Blue -Shingo Kanehiro Live in Mt.Takao-』
Asuralbert Ⅱ『In principio erat Verbum』
https://ssm.lnk.to/inprincipioeratverbu
Asuralbert Ⅱ『We Love Live House Tour 2020 + 1』
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